今回はくろちゃんです。
I橋のそばに居て、皆さんに可愛がられているにゃんこです。HY嬢に場所を聞いて行ってみましたが初回は会えませんでした。
2回目は、呼ぶと小さな一声の返事があったんですがどこにいるのか分かりません。
気が付くと後ろからこちらを見ていました。
すぐ近くには餌入れ、水入れ、そしてしっかりとした段ボールのお家もありました。
その後は何回か会うことが出来ました。
今日のように天気のいい日はひなたぼっこです。
自分で掘って作ったのか、落ち葉をすり鉢状にしたベッドを3つ持っていて、こんなふうにその中に納まっています。
なつこいんですけど、とにかくおとなしい子です。動きがほとんどありません。
じゃあね~。
と、ほんとうに「じゃあね~」になっちゃいました。
次に行ってみると、こんな看板が・・・
もう若くはなかったので・・・良かったんでしょうけど・・・、会えなくなるので寂しいような・・・。
実は、このI橋のそばに居た別の子にも会えなくなってしまいました(その子は日を改めてご紹介します)。
12号にもそんなことを書きましたが、家の中に飼われるということはすなわち「愛し、愛される関係」が限定されるということです。
にゃんこは私たちのために存在し生きているわけではありませんし、人間を愛し人間に愛されることを人生(にゃん生)の目的にしているわけではないでしょう。
(「そんなことは無い」とのお考えも否定は致しません)
それでも私たち人間というのは、愛するためにまた与えることを喜びとして日々生きています。その対象がにゃんこや他の生き物の場合や時もあるでしょう。だから「ねこ(他の生き物の)の幸せ」という言葉を持ち出したりします。
でも本当はよく分からないんですよね・・・。
何を望んでいるのか、ねこの幸せとは何のか・・・。
もしかしたら「ねこの幸せ」という言葉自体が、人間の側の傲慢な思い込みと気休めや自己満足なのかもしれないような・・・。
何しろにゃんことは話し合いが出来ませんし、思考や感情も異なった生き物でしょうから・・・。
前にも書きましたが、それでも動物はどんな状況でも死ぬまで生きます。野良でも家でも動物園でもジャングルでも。人間をも含めた他のすべての生き物や地球と関わって。
いずれにしても、「ねこや犬は人間が飼う生き物である」を絶対ベースとしている概念の下、私たちは生きています。故に「保護」という言葉が美談としてマスコミ等にも取り上げられているんでしょうね。でも、そこには必ず「経済性」というやはり人間本位に作り上げた価値観がからみついて、そもそもの問題を作り出し、複雑化させ、または解決したように見せています。
いっぽうで、里山、害獣、害虫、特定外来生物、絶滅危惧、地球環境といったこと等も問題として耳にします。耳にしながらも、生き物たちとの関わり方の本当の答はちっともわからないまま時間は前へと進んでいきます。どうすりゃエエの?
なんだか全然分かりません。
答を探らないまま未来をただ漫然と受け入れるだけのことを、福田恆存は「未来が現在を押しのけてやってくるところでは、・・・現在は常に不完全燃焼のまま残り、過去の穴倉で腐敗する」(「人間・この劇的なるもの」)と書いていますが、そう言われましてもね・・・。
いや、最近腐敗臭のような加齢臭がきつくなってきているのはそのためか・・・。
とにかく、にゃんこはいつまでも見ていたいです・・・。
囁くようであってもこの愛しく小さき者の命の言葉を聞き取ることを願いながら・・・。
それでは失礼いたします。
「にゃんこプレス」